人気音楽グループ「ゴールデンボンバー」のボカーカル、「鬼龍院翔」さんが、2024年8月19日本人のTwitterで待望の第一子が生まれた事を報告。
鬼龍院翔さんのファンや、フォロワーからは祝福の声が寄せられています!
しかし、その報告内容で話題を呼んだのが「性別は将来のことを考えて公表しません」という一言。
鬼龍院さんが、子供の性別を隠した本当の理由は何だったのでしょうか?
業界の背景とともに考察していきます。
鬼龍院翔さんに待望の第一子!性別は異例の非公開
2024年8月19日、ゴールデンボンバーのボーカル、鬼龍院翔さんが自身のTwitterで待望の第一子の誕生を報告!
鬼龍院翔さんは以前から、「新しい家族が増える」趣旨の匂わせ投稿をしており、ファンの間では「そろそろ子供が生まれるのでは?」と噂になっていました。
そして、その噂は現実に!
鬼龍院さんの第一子誕生の投稿には、多くのファンやへずまりゅうさんを始めとする有名人の方々から4000件近い祝福のコメントが寄せられています。
性別は非公開
この第一子誕生のTwitter投稿ですが、鬼龍院翔さんは第一子の性別を明かさず、次のように述べていました。
著名人に子供が生まれた際の発表としては異例となる、「性別の非公開」。
「将来の事を考えて公表しません」と発言したのには、一体どんな理由が隠されているのでしょうか?
次の章で深く考察していきます。
鬼龍院翔さんが子供の性別を隠す理由は何?
自身のTwitterで、第一子誕生を報告した鬼龍院翔さん。
「性別は将来の事を考えて公表しません」と投稿した理由は一体何だったのでしょうか?
話題となった投稿には、祝福のコメントの他に「性別を隠す理由があったのだろうか?」といったコメントもいくつか見受けられ、性別の非公開を不可解に思う方も多い様子。
この章では、鬼龍院翔さんが第一子の性別の非公開に至った理由を検証していきます!
ジェンダーレスは新しい市場を生む
コロナ禍以降、急速に存在感を強めてきた「ジェンダーレス」という言葉。
もちろん、ジェンダーレスを掲げる人たちは以前から一定数存在していた訳ですが、
コロナ禍以降に産まれてきた「多様性」という考え方を皮切りに、ジェンダーレス思想は世界中で急速に普及。
最近では2024年パリ五輪「女子ボクシング」でのジェンダー騒動が記憶に新しい所です。
しかし、この「ジェンダーレス」は必ずしも自然発生してきた風潮とは言い切れない側面があります。
国内大手商社の「伊藤忠商事」は2021年に発行した機関紙で、以下のような内容を記載していました。
・男性の美容意識の高まり
・男性が真珠を身に着ける時代
・着る人を選ばない服作り
・性自認に合わせた学生服作り
引用元:繊維月報
このように、新たな価値提供に関する文章が2021年の時点から公開されており、新たなビジネスチャンスの到来を予告する内容となっていました。
この機関紙が発行されてから3年の月日が経った2024年現在、実際に巷ではメイクをして街を歩く男性や、スラックスを履く女子学生の姿も多く見られるようになり、ジェンダーレス社会は現実のものに。
過去数千年のあいだ、男性と女性を区分していた垣根が無くなり始める事で、そこに大きなビジネスジャンルが誕生。
巨額のお金が動く新市場が誕生したのです。
芸能人にはインフルエンサーとしての義務が
もちろんの事ですが、鬼龍院翔さんは有名ミュージシャンであり、有名芸能人。
芸能界で生きていく為には、テレビ出演や音楽活動など、少なからず「スポンサーの意向」に沿った活動をしなければいけません。
近年、芸能界でも多くの方が自身のジェンダーに関してカミングアウトするなど、ジェンダーに関する告白がある意味「風潮化」している節も有ります。
必ずしも大企業の意向に沿った発言という訳では無いと思いますが、芸能界のスポンサーである各企業が、「ジェンダーレス市場」を作り出すために芸能人に、何かしらの働きかけをしていたとしても、何の不思議も有りません。
鬼龍院翔さん本人の意向
もちろん、性別を公表しなかった事が必ずしもスポンサーからの働きかけであったとは言えません。
鬼龍院さんは有名芸能人であるため、子供の性別を公表することによって、メディアが過剰に反応し、結果として子供のプライバシーが侵害される事を避けたかったのかもしれません。
特に海外では、有名人の子供たちが過度に注目されることが問題視されており、鬼龍院さんも親としての責任感から、「性別の非公開」を決断した可能性も高いです。
まとめ
年々、一般化しつつあるジェンダーレス思想。
特にも日本はこの考えに対して後進国であると、諸外国から指摘されており、今回の発表で鬼龍院さんは日本のジェンダーレス思想に新しい風を吹き込んだ事は間違い無いでしょう。
今後は、有名人の子供の誕生に際しては「性別の非公開」が一般化していくのかもしれません。
たとえ、「女々しくて」も辛くない時代が到来したのではないでしょうか?